2023年5月、インド北東部に位置するマニプール州で異なるコミュニティに属する者同士による武力衝突が起こった。その後も、事態は激化し多くの人が避難を強いられている。3ヶ月後には、少なくとも120人の死亡が確認されており、実際にはこれを上回るという見解もある。それにも関わらず、インド政府の対応は後手であるという。
このような事態はマニプール州に限られない。インド北東部の他の地域でも長年続いている武力紛争がみられてきた。この地域の紛争は、隣国も絡んでおり、不安定な状況は越境している。これらの紛争がなぜ発生しているのか、その背景に何があるのだろうか。この記事で探っていく。
目次
インド北東部とは
インド北東部はアッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、トリプラ、ナガランド、マニプール、ミゾラム、メガラヤ、の7つの州で構成される。この地域は主にバングラデシュの東、ミャンマーの西に位置しており、他にもブータン、中国、ネパールの計5ヶ国と接する。一見飛び地のように見えるが、インドの他の地域とはシリグリ回廊という西ベンガル州の狭い回廊で結ばれている。
地形的には、山岳、丘陵、盆地、平野、川や平野が複雑に入り組んでいる。北東部の半分以上は森林に覆われ、多くの種類の木々からなる森林を有し、生物多様性にも優れている。豊かな自然に囲まれ農業は盛んに行われてきた反面、その地理的にインドの他の地域と隔離されていることや山岳地帯であることからヒトの移動やモノの輸送が困難であった。地域間の連携の未発達さが、インド北東部全体の地域的経済発展を困難にした。
この地域がインド国内の中でも特徴的なのは、その地理的なものに留まらない。5,000万人を超える人々がこの地域に住んでおり、この地域はインドの他の地域と異なる多様な言葉、文化、宗教、歴史をもつ。
言語について言えば、複数の言語族から複数種類の言語が使用されている。インド全体からすると少数派である言語が、北東部では中心的に使われている。アッサミーズは主にアッサム州で、マニプリは主にマニプール州で使われているといったようにある程度州ごとに使用言語が固まっている。しかし、独自の発達を遂げた言語が各地に存在し、使用言語の種類の多さから言語的にモザイクな地域となっている。また、言語の多さに比例するかのように民族アイデンティティも多様である。言語によってある程度帰属コミュニティが確定され、言語の名称と民族名が一致するものが多い。宗教的にも特徴的で、インド全体でみたキリスト教徒のほとんどが北東部地域に集中しており、アッサム州のイスラム教徒の多さもインド国内では目立つ。
インド北東部の反政府感情が生じるまで
続いて、歴史的にこのインド北東部という地域がどのように形成されてきたのかを簡単に確認していく。上記のように現在の北東インドには様々な民族グループが形成されていき、王国など様々な政治形体も発展してきた。それがイギリスの進出で大きく変わることとなった。同国の貿易会社である東インド会社が16世紀から17世紀にかけてやってきて、占領するようになったときがその始まりである。1858年から、現在のインド、パキスタン、バングラデシュはイギリス領インド帝国として正式に植民地支配されていた。北東部地域も例外ではなく、イギリスの支配下に置かれた。
具体的には、アッサム地域を、他のインド地域と同様に、本国の官僚が支配する直接統治する地域と、対象地域の有力者を通じ支配する間接統治との2つの統治方法にわけた。前者の地域は、天然資源や紅茶などの作物生産が可能な平原地帯であった。そして、後者の地域は、自治区としての立場とともに、イギリスにとっての中国など他の勢力との緩衝地帯としての役割も担っていた。目には見えないが、人為的な境界線をイギリスが作り出したことで、インド地域内で北東部地域の一部が隔離されたように扱われた。この隔離された感覚は、この地域の独立への志向 を高めたように考えられる。
1947年のインド独立後も、北東部地域は植民地時代のような扱われ方をうけ、この地域の政治的願望は軽視される傾向があった。例えば、インド政府による法の支配の仕方にこの傾向がみられる。インド政府は、北東部地域の多くに、治安を維持するためと称し、インド軍が逮捕、拘留などを比較的自由に行える特別な権限を持つことを認める国軍特別権限法(AFSPA)を施行した。人権保障の観点からは問題視されたこともある。他にも、北東部地域の安全の確保、政治的、社会的、経済的発展を促す目的で北東部評議会(NEC)という組織を立ち上げるが、これも地域の発展の手助けのための政策として行われたが、北東部地域の自治に対して中央政府が意図的な監督、介入をしているとも捉えられた。
一部の人々による反政府感情やコミュニティ同士の対立の根底には、上述した地理的にも文化的にも他のインド地域から疎外されたことがあると考えられる。またその結果経済的発展や社会的インフラ整備の適切な対処がなされてこなかったゆえの貧困状態、イギリス統治時代やインド独立後の政府の対応などにも起因すると考えられる。また、コミュニティが築いてた文化や生活を中央政府が侵害するかもしれないとの不安も住民の間で強かったという指摘もある。こうして、何十年にもわたって、地域全体の不満を拡大させる状況が生まれた。様々な過程を経て反政府組織の登場と暴力につながり、また同時に、地域内での対立や衝突も生じることとなった。以下では、上述したような状況の中で生まれた3つの州の、影響力の大きい反政府組織についてみていく。
アッサム
アッサムにおける反政府感情は、移民に対する不安感から生じた。アッサム地域では、バングラデシュがパキスタンから独立する契機となった1971年の独立戦争により百万単位の難民が流入した。そして、流入してきた人々がアッサム州の文化的、政治的、経済的生活に重大な脅威であると感じたアッサムの若者の一部は、国外追放を要求する運動を起こす。同時期に、アッサムとアッサムの人々を「インド帝国主義」の束縛から解放するという目的を掲げ、アッサム統一解放戦線 (ULFA) が誕生した(※1)。彼らは、歴史的に紅茶や石油という大きな産業を筆頭に、豊かな天然資源を持つ割にアッサム地域の発展が遅れているのは、それらをインド政府に搾取されているからだと主張し、アッサム地域の人々の反政府感情をあおった。
アッサム地域では1983年に、アッサム民族アイデンティティを第一に考える人々に触発された民衆による、アッサム州議会選挙の大規模なボイコットが起きる。このボイコットは、ULFAやその他のアッサム独立を求める武装グループも絡み、各地で暴力事件に発展し、バングラデシュから流入されたとみられたイスラム教徒の大量虐殺も起きた。一連の選挙に絡む動きの中でULFAは台頭していく。
しかし、1990 年代には、武力行為、武器や麻薬の密輸、恐喝活動がより盛んになり、地元民も巻き込む爆弾攻撃といった無差別な暴力も行うようになり、アッサムの人々からの人気も落ちていくこととなる。また、組織内の権力がトップに集中し始めていたULFA活動家の間では、指導者による独裁への不満が生じはじめ、積極的に組織に参加する人々も減少していった。大衆の心は次第に離れていき、1999年の国会投票ボイコットを求めるULFAの呼びかけは軽視された。
2023年に、インド政府はULFA内の交渉推進派との和平協定を達成した。しかし、同グループの強硬派は合意に加わっていないため、長年に渡る抵抗はこれからも終わりが見えない。
ナガランド
ナガ人というアイデンティティをもつ人々の多くの生活圏は、かつてアッサム州に組み込まれており、現在のナガランド州の特定の丘と山脈を住処としていた。平原を中心として生活を送っていた人々とは、地理的にも文化的にも比較的孤立した状態を何世紀にもわたって保ち続けていた。イギリスの植民地支配の一環で進出していたイギリス宣教師においても、他の地域に比べ干渉が少なかった。
インド地域全体での植民地化を推し進めるイギリスの勢力はこの地域では強い抵抗に直面した。そして、1918年にナガの人々の間の団結と友好の確立を目指すナガクラブという政治的フォーラムが登場する。イギリスはこのころ、将来的なナガランドの独立を約束するかのような対応をとっていた。第二次大戦後にさらなる団結を見せ1946年にナガ民族評議会(NNC)が発足された。
インド連邦に加入する意思のないNNCは、1947年のインド独立の2か月前に、アッサム州知事とハイダリ協定を結んだ。この協定では、一定程度でNNCの自治が確保され、10年後にNNCがこの協定の延長や、 新たな協定の制定を要求できることが合意された。この10年間についてNNCは、ナガの人々がインド連邦に参加するのは一時的なものであると独自に解釈していた。しかしインド政府は、10年後の合意内容の見直しはナガの人々のインド連邦からの離脱を示唆する訳ではないと考えていた。文言解釈の不一致は、NNCのメンバーに、自分たちの独立要求が軽視されていると感じさせ、インド政府への不信感を募らせた。
そして、インド独立前夜には、NNC 内で分裂した一つの急進的なグループが、インド独立宣言をボイコットした。他にも、ナガの人々は独立後の総選挙をボイコットするなど、暴力に頼らない形でインド憲法を受け入れないという態度を示していた。しかしインド政府がNNCメンバーに対してとった行動は軍事的措置であった。ナガのグループもこれには武装蜂起で対抗し、インド治安部隊との対立と紛争へつながった。
1963年に、ナガランドは、北東地方の州の再編の動きの中で、アッサム州から切り離され現在のような一つの州として正式に成立した。
インド政府の圧力を受けつつも地下活動を続け1980年にナガランド国家社会主義評議会(NSCN)を結成し、北東部の反乱の中心的存在にまで成長した。しかし、1988年にインド政府との和平交渉をめぐる内部での考え方の対立から、NSCN内で派閥が明確に分裂し、ナガランド州全体で和平プロセスを歩めるのか曖昧な状態に拍車をかけた。
2015年には、インド軍の数名が、ナガの人々から成る反政府組織からの待ち伏せ攻撃を受け死亡し、その報復にインド軍特殊部隊が反政府組織内の人々を殺害している。また同部隊は、2021年には、反政府組織のメンバーと間違えて民間人を襲撃したために騒乱を引き起こす事態となった。いまだナガの人々の社会は、インド政府との遺恨が残り、平和の進展も曖昧ではあるが、これまでのナガの人々が抱える政治問題を解決すべく、一部のナガの反政府組織は協議による平和を目指している。
マニプール
現在のマニプールの地域は植民地化前、メイテイ王朝の独立国家であった。その後、インド連邦の一部となって州として成立した。この頃から、ビルマの侵略を受けたり、マニプール藩王国として(※2)イギリスの保護下に置かれたりしながらも、ある程度の自治を保っていた。しかし、1947年にインドによる強制合併が行われた。地域住民の多くはこれに対し、強い抵抗と分離主義を主張した。様々な信仰や文化を持つ複数のコミュニティが存在するこの地域では、インド政府に対する相反する要求や主張があり、その数だけ反政府勢力が生まれた。例えば1964年には統一民族解放戦線、1978年には人民解放軍 (PLA)といった武装組織が生まれ、インド政府の治安部隊と衝突してきた。
ここで対立構図を、インド政府対マニプール地域と単純化することはできない。特に、主に低地に住むメイテイの人々と、主に高地に住むクキの人々との間での分断が生じる傾向にある。まず、一つの原因としてこれらのコミュニティの間の土地権利の不均衡さがあげられる。インドへの併合に際し、州政府はクキの人々の多くが住む丘陵地帯に保護林を設定し、保護林内のクキの村々を調査する取り組みを行った。その多くが政府の望む自然環境の基準以下であると判断され、クキの人々は立ち退きを強制された。ほかにも、メイテイの人々が丘陵地帯の土地購入を制限されており、コミュニティ間の現在の土地の不均衡のシステムがある事がわかる。
上述したような土地の不均衡や州政府の対応への不信感などにより、クキとメイテイのコミュニティの間には常に緊張があった。緊張状態が暴力へと発展したのは、2023年5月であった。この日、裁判所はメイテイの人々にインド憲法内で特別な地位を与える判決を下した。クキの人々の一部はこれに反対し、抗議活動を行った。メイテイコミュニティはこれに触発され、両コミュニティの一部の人々が暴力的な衝突を引き起こした。多くの避難民を生み死亡者も出しており、性的暴力までもが報告されている。インド政府は、2023年5から顕在化しているマニプール地域の暴力行為について2ヶ月ほど沈黙したとの批判もあった。この地域に兵士や警察が派遣されているが、コミュニティ間の長年の不安は拭いきれない。
インド北東部をみわたして
これまでインド北東部の3つの州に焦点を当ててきたが、以上のような反政府組織は、ミゾラム州やトリプラ州など北東部の他の地域でも見られる。ミゾラム州では、1959年にミゾ丘陵地帯で大規模な飢餓が起こったとき、政府に代わり、苦痛に悩まされる人々を救う目的で一部のミゾの人々が支援組織をつくった。その後、ミゾ地域のインド政府の不満を反映するかのように分離主義を掲げ、1966年には、武装したミゾ国民戦線(MNF)として活動し始めた。トリプラ州においても、1989年にトリプラ民族解放戦線(NLFT)が反政府勢力として発達した。この組織は1970年以来、トリプラに難民などとして移住してきたベンガルやバングラデシュの人々を追放し、先住民のためのトリプラ州としてインド政府から独立することを目指す。ただし、数多くの一般市民も犠牲になっている。
このように、反政府組織の存在は、ナガランド国家社会主義評議会(NCNS)やアッサム統一解放戦線 (ULFA)といった比較的大きな組織に留まらず、北東部の各地域で確認される。各民族アイデンティティを持つ人々の中に、国家としての独立や自治権の要求を持ち、組織化する者が現れている。その要求は中央政府に向けて、時に平和的に、時に暴力的に発せられてきた。
北東部地域は、特異な地理的条件や開発の遅れ、またインド国内屈指の文化の多様さをもつ。コミュニティ間の格差や政府による扱いの違いから、コミュニティ間の衝突の発生や、反政府感情を持つ傾向も高い。また、インド政府はこれらのコミュニティの懸念や要求に応えようとする姿勢を見せなかった。それどころか、インド政府は北東部地域を、インドの他の地域と分けて取り扱い、不満を力で抑えようとすることが多かった。潜在的な国家安全保障上の脅威として認識し法で縛り付け、上からの介入や武力行使を正当化する傾向がみられた。こういった政府の対応が、インド北東部全体の政府への不信感や混乱につながっていると考えられる。
周辺国との関係
インドの北東部は、地理的、文化的近接性からインド周辺国との関わりも深く、国境をまたぐ民族グループも存在する。ゆえに、草の根レベルでの交流・貿易などがある。しかし、それぞれの国の国益・思惑の観点から摩擦などもあり、様々な形で反政府組織と干渉しあっていることに注目したい。
中国とインドは、1950年代から両国国境をめぐって対立し続けており、1963年にはヒマラヤ地方で国境を巡る戦争に発展し、約1ヶ月で停戦している。両国の領土争いは長年にわたり、20世紀後半には、両国内の反政府勢力に互いの国々が支援する構図があった。過去には、ヒマラヤへの興味を持ち続ける中国政府が中国各地でナガの反政府勢力を訓練するなどをして支援を行っており、反対に、中国政府への抵抗から始まったチベットでの反政府勢力は、インド政府によって支援されていた。
また中国政府は、インド北東部のアルナーチャル・プラデーシュ州を自国の領土の一部であるとの主張をし続けており、南チベットと呼んでいる。さらに、2021年には、中国政府は州内の一部の場所の名前に関して、漢字とチベット文字で統一された名前を割り当てたと発表し、これに対してインド政府は不快感を示した。
パキスタンは、1947年にインドから独立する形で分離したが、カシミール地方の帰属をめぐり両国の武力衝突が起きた。停戦協議後実質的にはインドとパキスタン(一部は中国)の支配下にあり、対立は続いている。この緊張状態の中で、インド国内の反政府組織が活発化していたことにパキスタンは目をつけた。パキスタンは、諜報機関の軍統合情報局(ISI)を通じ、ナガの反政府組織に対し訓練や資金面で支援をしたり、インド国外でも基地を作り戦力を拡大したいアッサム統一解放戦線 (ULFA)に協力したりした。パキスタンの狙いは、インド国内のカシミール地方以外の地域の混乱を促進することで、カシミール地方への圧力を減らすことにあったと考えられる。
バングラデシュは、1971年のパキスタンからの独立に際してインドから支援を受けた。しかし、紛争が生じたことで難民が北東インドに流入している。その多くがイスラム教徒ということもあり、インド中央政府が懸念していた。また、アッサム地域の住民からも、流入した難民がアッサムの土地を奪い経済的に成功しているといったステレオタイプが生まれ、追放を望む運動が起こる。1983年には6時間ほどの間に2,000人以上のイスラム教徒入植者が殺害される事件も起き、この多くがバングラデシュ出身の人々であったとされる。また、独立後の領土問題から両国の関係は悪化していき、相手国内部に存在する反政府勢力への協力をお互いが行うようになった(※3)。
ミャンマーは自身の国内問題が多いということもあって、過去にインドとの関係や対立はそれほどなかった。しかし、軍事政権下におかれ、国内が不安定なミャンマーで、インド北東部の反政府勢力は生き残るための力を蓄えようとしている。地理的な近接性を利用し、インド政府との和平に応じないいくつかの活発な反政府組織がミャンマーで拠点を確立させた。
2019年には、ミャンマーのザガイン地域に設置されている北東インドからの反政府勢力のキャンプがミャンマー軍によって破壊され、インド政府への朗報のように思われた。両国は2021年には、各自の領土が有害な活動に使用されないようにする旨の取り交わしをした。しかし実際には、ミャンマー軍といくつかのマニプールの反政府組織は互いに協力するかのような合意に至ったという報道もある。
また、ミャンマーでの2021年のクーデターとその後のミャンマーの反政府組織との紛争の激化により、クキコミュニティと強いつながりのあるミャンマーのザガイン地域からの難民流入が引き起こったことでメイテイコミュニティに大きな不安感をもたらし、2つのコミュニティ間の分断を深めた。
ブータンとインドの関係に関しては、インドの反政府勢力がこの地域に隠れて拠点を設置していたり、それにブータン政府が対処しきれなかったりしたことが挙げられるが、北東インドの他の隣国よりは関係が良好だとされている。しかし、反政府組織は、ブータン内の基地へ向かう際、国境を接する森林にて、活動資金調達のため、木材の不法伐採や密猟をしてきたという指摘もある。また、保護林内での活動もあったとされ、破壊された保護林の再生と土壌保全のために、この地域での反乱鎮圧は自然保護の観点からも重要視される。
まとめ
インド北東部地域は、これまで見てきたように、インド政府との対立、民族コミュニティ間の対立、そして周辺国との相互干渉など様々な問題が絡み合う複雑な状況の下にある。反政府組織の存在も大きく、一般の人々が命を脅かされるような不安定な状況も続いている。状況は複雑であるが、各地域の各コミュニティがなにを望むのか、インド政府や周辺国、そして当事者同士が理解して、少しずつ平和に向かって欲しい。
※1 アッサム地域には他にも多くの反政府組織が出現している。例えば、ボドランド民族民主戦線(NDFB)や、カムタプル解放機構(KLO)といった組織や、移民イスラム教徒が居住する地域のイスラム統一解放タイガース(MULTA)などの組織がある。
※2 藩王国とは、イギリスによるインド植民地支配の下にありながら、一定の自治を認められていた地方政権のことである。
※3 バングラデシュとインドの西ベンガル州との国境はかねてから飛び地として存在しているところがあり、バングラデシュの独立後にも問題となった。協定により飛び地に関して交換や譲渡がなされる算段は一度たったものの、インド側の拒否により領土問題は硬直化した。バングラデシュが自らをイスラム国家と宣言すると両国の関係はさらに悪化した。2014年以降には、領土問題に関して両国の間に歩み寄りが見られ始めた。
ライター: Rei Oishi
グラフィック: Saki Takeuchi
国境も地形も入り組んだ場所に言語もアイデンティティも異なる多くの人々が住んでいるので紛争が絶えないですね……ここでも過去の植民地支配が原因の一つになっていて、植民地支配の有害さをひしひしと感じます。